木漏れ日の中で
いつもこちらのブログを読んでくださり本当にありがとうございます
Organic Apothecary Pirkamerは
2018年3月3日より
たくさんの方々に
助けていただきながら
様々に試行錯誤をしてやって参りました
開業当初は素敵なシェアオフィスをスペースをお借りして
店頭に立ったり、レッスン講師したり
カフェイベントに誘われて参加したり
いらっしゃる方といろいろなお話をしながら
温かい時間を重ね
いろいろな学びや気づきをいただき
かけがえのない時間を過ごさせていただきました
しかし貴重な経験の中で
大きな気づきがありました
私は人前に立つのがやっぱり無理らしい
人の視線が集まることへの苦痛は治らない
日陰が大好き♡
幸いこれまでの活動の中で
素晴らしいご縁をいただき
全く無理せず日陰でできる素敵なお仕事をぽつぽつと頂戴しています
これもPirkamerとしてお世話になった全ての方々のおかげ
本当に感謝いたします
これからはますます
ギフトである自分の性質を大切に
植物と共振共鳴を深め
場所の制限を超えて
日陰で楽しくのびのびと
いただいたご縁を大切に愛を紡ぎ
受け取ったものを形にしてゆけたらと思います
Pirkamerのコンセプトは変わりません
植物の光とあなたの中の光との
アルケミーを見つめてゆくこと
私の持ち前の内向性を活かして
創造性を強められたら嬉しいです(内向性バンザイ笑)
私が最も共振共鳴してPirkamerのアイコンにしている
オオバナノエンレイソウも日陰が大好き♡
この花が木漏れ日の中でさわさわ風に揺れるように
静かに対話しながら相手の光に耳を傾けるのは大好きです
この花に生き方を教わることはまだまだありそうです
これからの活動はまた随時こちらで報告してゆきますね
これまでと同様に応援いただけましたら幸いです
今後ともどうぞよろしくお願いいたします
こうしてやってこれて私は幸せです
木漏れ日の中から感謝を込めて
彼の岸
彼岸花はお彼岸の頃、ちょうど今ごろに花を咲かせます
全草に毒を持ち
土に穴を開けるモグラやネズミを避けてくれるので
田畑の畔や墓地などによく見られる花
死やあの世を連想させ、不吉な怖いイメージもあります
花言葉も「あきらめ」「転生」「独立」「再会」「悲しい思い出」など
どこか切なさを感じるものばかりです
別名、曼珠沙華とも呼ばれ
その意味は天界の花
仏教との縁も深い花といわれます
法を説くお釈迦さまの頭上に
降り注いだという一節が法華経の中にもあるとのこと
仏教では“あきらめる”とは
明らかに見るという意味を持ちます
道の理を心得ること
結果、何か想いを終わらせる場合でも
執着なく、すっと手放しが起こり
そこに生まれた空白に真のビジョンが届くような
すっきりとニュートラルな状態
明らかに見ることができれば
転生や独立、再会、思い出の中に見ていた切なさは
自分が映した幻だったと気づく
怖いと思っていた彼の岸は
自分が明らかに見ることができなかっただけだと
そして転生は生きながらにしてもできるし
今ここで生きたいものを生きることができるということ
表にある重さの裏に
そんな軽やかさを受け取っています
ちなみに彼岸花は毒性が強いけれど
その鱗茎はデンプンに富み
飢饉のときには救荒食として利用されたそうです
その毒(アルカロイド)は正しい方法で水にさらせば抜くことができます
彼岸花の鱗茎は
生薬名は石蒜(せきさん)
腹水などの浮腫みに唐胡麻(蓖麻)と練ったものを
足裏の湧泉に貼り付けるという方法がよいと
師匠の一人に教えられました
(唐胡麻、ヒマシ油の原料)
また、彼岸花の中のガランタミンという成分は
西洋医療の分野でも認知症治療に多く用いられています
あちら側とこちら側の間にあるような存在
彼岸花からはそんな印象を感じるのです
陰と陽が同量になる頃
あの世とこの世が最も近づくと言われるお彼岸に
美しく立ち現れたこの花を
あなたはどんな想いで愛でるのでしょうか
五情について
中国思想ではあらゆるものを木火土金水のバランスで見ていました
感情についても
怒り、悲しみ、喜び(楽)、憂い(思)、恐れを
五情として木火土金水に配当します
でも、私はこの五情のバランスをどこかちぐはぐに見ていたことに気づいたのです
楽しくて喜んでいるのは幸せだし一番素晴らしいんじゃ?とか
怒るのとか周りに迷惑だし!とか
憂いて行動が止まるのとか自分を好きになれない!とか
感情を裁き、差を付けていたのです
この五行の図が示しているように
どれかが偏って過剰になると
バランスの失調をもたらし、肉体にも周りにも影響を与えてしまいます
ある感情を裁いて閉じ込めると、細胞に蓄積して、どこかで溢れたり、爆発したりするから
どの感情も特別に扱うのではなく、等しく愛して
呼吸レベルで爽やかに小出しに解放できたらいい
でもどこかにジャッジが入ったり緊張していると
解放したくてもできないものです
リラックスして細胞の中にある感情を止めずに
笑って泣いて怒って怖がって
それを1ミクロンだって否定しない
否定しないで済むよう状況は選びます
抑えないけれど、理性と手を繋ぐことは大切
自分を好きでいられるところに自分で自分を連れてゆくのです
感情が等しく見えたら
人の心を織り成す五情が
花のように調和していて
なんて美しいんだろうって。。。
すると全部愛だったってお手紙が届いて
自分も相手もどんな感情も
もう全てが愛おしくなってしまいます
怒、悲、喜(楽)、憂(思)、恐
この五情を等しくとらえた先人に尊敬の念がやみません
その愛おしさの向こうには五行の次元を超えた
分離のない、芯から安らかな喜びと笑いがある
同じ言葉でも
分離のある領域と無い領域があるから
ややこしいですね
感情の解放
出会う全てがそれを後押ししてくれることを
本当にありがとうございます
私の仕事はただ肯定し続けること
私も、相手の感情を
オッケー♪って愛して受け流すことができるように
音楽を聴くように軽やかに
自分の感情を愛することを諦めないのです
美しく咲いた花は分離のない愛と共振共鳴する
ハマナスはバラと同じく
五芒星の軌道を描き
愛、喜び、女性性、調和、創造、豊かさなどのメッセージを放ちます
今という花
これまでの記憶も
これからの可能性も
すべて今ここにあります
与えられている流れを読み
滞っているところがあれば
丁寧に浚ってゆきます
与えられているものを無視して
今という花を踏みつけていないか
こんな自分なんかと
大地の呼吸から切り離していないか
今という花に愛が注がれるよう
自分に対して
どんな小さな嘘もつかず
自分を満たし安心させてあげよう
いつも感覚を研ぎ澄ませ
流れを受け容れるのです
そうして今という花が
満を持して完璧に
ここに開き散ってゆくのと
共に在ることができる
永遠を湛えた
一瞬のきらめきとして
希望も恐怖も
柔らかく包み込み
みんな一緒に愛の中へ
今という花
それは世界そのもの
そしてわたしそのもの
内なる花
恋い焦がれていた
今しか出会えない妖精
好きな花はたくさんあるけれど
落葉樹の林床に咲く
可憐な春の花が特に好きです
春の発揚とともに
一気にあふれる喜び
束の間の開花がとても愛おしい
森の落ち葉のふかふかベッドの中で
冬の間はじっと内的に過ごし
春は柔らかな光の下で繊細な美を表現し
夏は森の緑に守られ涼やかに
他の緑に隠れて地味だけれど
全く気にせずに遊ぶ
だって大いなるものと一つなのだから
中でも大好きなのはオオバナノエンレイソウです
このようなピュアな花を咲かせますが
延齢草の名が表すように
とても長い時間を生きる草本です
発芽から開花まで10年以上かけて成熟し
開花までの道半ばで命を終わらせるものも多いけれど
一部の開花まで至ったものは安定して花を咲かせ
長いものは50年という時間を生きます
参照:植物生活史図鑑1〜春の植物No.1
ほんの束の間に現れる
その美しい花を見つめていると
悠久の流れの中の
一瞬のきらめきに出会っている
この今に感じ入り
溶けてしまうのです
私はいつか一面に広がる
オオバナノエンレイソウに会いたい
けれど何より
私が見つけたかったのは私の中にある
オオバナノエンレイソウなのかもしれないと
そのことに気づかせてくれたのは
自分とは気持ち良いほど真逆の
ハイビスカスのような方でした
明るく華やかで
多くの人前でパフォーマンスが輝き
燦々と降り注ぐ陽光がとても似合う
活力のあふれる方
体操やハーブなどを通して
人々を元気にしたいという思いを表現し
活躍の場を北海道だけでなく沖縄にまで広げようとしていて
意識は国境すら越えている
自分にはできない性質を
喜びいっぱいに生きてくださっていること
本当にありがとうございます
(はじめてお会いしたのはオオバナノエンレイソウのモチーフが校章となっている、北海道大学でした^^)
自分と真逆の方と
同じ思いで繋がり
互いをリスペクトして
心地よく自分らしさにコミットできるという幸せ
真逆だからこそ
補い合い
引き出し合い
新しい創造性が生まれる
活きる環境も
在り方も
雰囲気も
流れる時間も
みんな違うけれど
そんなものは越えて手をつなぎ
幸せな世界を広げてゆける
それぞれが咲きたいところで
イキイキと咲くだけ
そこに価値の優劣なんか1ミリもなくて
真逆の人とは刺激と創造性を
似通った人とは癒しと安心感を分かち合えるから
どんな人もそのままで本当にありがとう
私は、
いっぱい注目されるよりも
たくさんの人の前に出るよりも
静かに対話をする方が心地よい
多くを表現するより
微細な世界を純度高くゆっくり分かち合える方が嬉しい
でも、それはわがままであり
内なる思いを循環させるためには
太陽の下に飛び出さないといけないと思っていました、、
けれど、オオバナノエンレイソウは強い日差しの下では
美しさを失い、力を失い、生きてはゆけないのだから
自分の心地よい在り方を否定することは
自分という花を合わない環境に植えるようなもの
オオバナノエンレイソウのままで
このままだからこそ愛し愛され
純度の高いエネルギーを世界に注げるのです
私は世界の木陰で
愛を歌い、喜びを創造する
そうして、あなたの中の美しい花と出会います
ヨモギの里
今年も愛しいヨモギの里を訪れました
美しいヨモギ畑
雪残る大雪山
山から流れてくる豊かさと人の営みとの間にあるもの
(ヨモギのハウスでの作業風景、今年はさらに現地でのご縁が深まりますますパワフルな4MGさん♡)
そこここに神様を感じる
ここに来ると
“ただいま”という
感謝を伝えたくなります
自分の内側の大切な柔らかいところと
共鳴する場所
心のふるさとのような、、
温かく優しいエネルギーに満たされて
新しい眼差しでまた未来を見るのです
背高のっぽの、昨年のヨモギの穂と
まだ小さくて可愛い、今年の若芽
このコントラストがまた感慨深い
私がもしヨモギなら
ここに根を下ろしたいって思う
昨年も今年もこれからも
本当にありがとう
4MGさん
温かく迎えてくださりありがとうございました
また、つながりを深めることができて
心から嬉しく思います
素敵な記事にしていただき感激!
出会えて無条件に嬉しい
そんな喜びを交換し合えることは本当に幸せなことです
オオバナノエンレイソウのポイントをチェックしてくださっていて
一緒に会いに行ってきました
最高に見頃のタイミングで
目から、毛穴から、全身で薬効いただいてきました
共に過ごした心躍るキラキラした一日
大切な宝物がまたひとつ
ありがとうございます
いただいたお土産も沁みました
福岡県の糸島のお店のもの
4MGさんのヨモギを使ったパンやお菓子があり〼
4MGさんこだわりのサシェ
オオヨモギとラベンダーが入っています
イタリアの上質な生地を使用していて
香りも手触りもうっとり
こんな素敵なものがあると
タンスの中も世界が変わりますよね
恵みがいっぱい
ありがとうがいっぱいです
言葉は半分
言葉は半分
伝えるけれど
すり抜け
受け取るけれど
流れてゆきます
その言葉の意味は
話し手受け手の前提で変容し
多くは見せたいもので
飾り立てられて
それぞれが受け取りたいものを
受け取っています
発される言葉の中には
真実はなかったりして
ずっとずっと
大きな流れの中に
内包されている
一欠片に過ぎないという要素も少なからず
言葉尻を大げさにするより
川を流れる一枚の落ち葉のように
ふわりと印象を受け取る方が
お互い楽につながれます
取るに足らないということではなく
半分の向こう側を
ちゃんと抱きしめるということ
誰の言葉も
もちろん私のものだって
そうだから
半分だなって眺めていると
どんな表現も、その余白から
前提や想いが立体的に浮かび上がってきます
その中に魂があり、ベクトルがある
それこそが世界を創造しているという気がしてきます
表現のパッケージがどんなものだとしても
丁寧に何重にも包まれたその奥には
純粋な思いがつまっている
そんな領域がある
いつでもその思いに心を重ねていたい
そして私も
自然と愛の浮かび上がるような言葉を紡ぎたいのです
ゆっくりでいいから
大切に
エッセンスを
抽出するように、、
言葉は半分
だからこそ
私は言葉を敬愛しています
ーーーーーーーーーー
シソ科植物は
唇形花といって
唇の形をした花を咲かせます
楽しいおしゃべりが聞こえてくるようですね
スッキリと香り豊かなものが多く
中性的な美しさ
軽やかな躍動
豊かな表現力が伝わってきます
ザワザワしたものではなくて
神経系を研ぎ澄まし
静けさをもたらす一方で
大切なところへ集中してゆくような
真の無邪気さ
何ものにも囚われず
軽やかに歌い踊り回るようで
中にはちゃんと一本軸が通っている
自分らしい表現
深い知性やハートと繋がった表現
そことずれてしまい
不調和が起こっても
つながりを再び通そうとする
自分の中の意志との共鳴
そんな対話のお供になってくれるように思います
ウツボグサ
カキドオシ
オドリコソウ
ここにあるもの
朝の澄んだ光
呼吸できるということ
水が飲めるということ
緑の美しいきらめき
雨のしとやかさ
太陽の温もり
愛する人の笑顔
思いを言葉に紡げるということ
伝える相手がいるということ
家に明るさが灯るということ
温かいご飯が食べられるということ
豊かさを感じる肉体があるということ
生きているということ
私たちはともすると
何もないと思ってしまうことがあります
その果てしない欠乏感は
埋めても埋めても満たされることはなく
そうやって気づかないうちに
大切なものを
傷つけているのかもしれませんね
こんなにも豊かな世界が
目の前に与えられています
それをいつも忘れずに
恐れに惑わされずに
愛を受け取り
感謝を伝えることができますように
愛をいっぱいに受け取り
享受すること
世界の愛に応えること
そこに罪悪感は一切要らないのだから
深く自分の根っこから
その循環に繋がれば
目の前には甘美な世界が創造されるでしょう
気高いその存在を
ほんとうは何者も侵すことはできないのです
バラはそんな気高さに溢れています
原種に近い野生種であるハマナスは
素朴に純粋に
私たちにその在り方を伝えてくれているように思います
チベットの精神医学
色心不二
自他不二の生命観に根ざした
医道即仏道の
チベット医学の粋!
とある古本屋で
帯の言葉に引きつけられ出会った
一冊の本が面白すぎます
その精緻な生命観は美しく最高にクール!
癒しとは
薬とは
医薬の道とは
その真ん中にあるものとは、、
個々の仏性、圧倒的な輝きが
当たり前にあるものだと
知っているという智慧
循環(関係性)の中において
その輝きを受け取ることで
引き出す在り方
このことは書かれてはいないけれど
自分がこの本を読んで
心の中に強調されたことです
(仏陀の本性の女性的な側面を表す菩薩ターラー)
自分の内にそのかけらでも見出したいものです、、
メモ代わりに本の内容を一部抽出したので
興味のある方はのぞいてみてください(^^)
ーーーーーーーーーーーーーーー
あらゆる現象は鏡に映る像のごとく、まことにその人自身の心に抱かれた概念にすぎない
心身のあらゆる病や苦の源は、心を調律することをなおざりにしていることにある
精神病の一般的で根本的な原因は、人間の最も奥深いところにある霊的な傾向や見識、またその者に内在する心理的傾向(気質)に反した生活を送ること
病はわれわれが行なっていることが根本的に均衡を欠いたものであることを示す信号である
しかし、罪の意識や自責の念は、迷妄によって生ずる障害を増やすだけであり、さらに不安や疾病の原因となってしまう
自分自身に対して完全に正直であること、心を開くことが必要
病はわれわれを成長させ、過去の否定的な行動を悟らせ、また自己治療を通じて自己啓発の実践に入る機会を提供してくれる
目先の治癒を求めないこと
霊的なレベルにおいて根本的な毒が存在しているのであるから、症状を強制的に取り除くなら、その毒の悪影響がさらに増大する可能性がある
脈管(*1)をまっすぐに維持することにより、霊的な力、すなわち風はおのずと適切に流れる
こうなると精神は自然にくつろぎ、安らかで快適な状態となる
姿勢は精神に影響を及ぼす
ヨーガの呼吸法を行う時は、背筋を伸ばすことが特に重要なのである
狂気の五つの原因(互いに関連しあっている)
①カルマ
過去の性癖、習慣、行為に起因する(魂の課題とも言える)
身体それ自体は三種の根本的な煩悩(三毒、貪欲・嫌悪・無知)の力によって生成される
(カルマを伴う意識が輪廻の中でこの世に引きつけられ生命が生まれる)
薬になるのはダルマの実践のみ
⇨徳行(愛と善行と慈悲の啓発)、禅定(精神の制御)、智慧の啓発(縁起による相互依存的起因、空性の認識)
ダルマの実践は根本的な分裂と分割を再統合する働きをする
いかにして激しい苦を自己憐憫や狂気ではなく、慈悲と智慧へと変えていくことができるかということ
現在の状況を経験する時の智慧のあり方が、われわれの未来を決定する新しいカルマを生み出す
われわれの現在の状況は宿命的ではなく、きわめて創造的である
②悲嘆や心配など
体液の障害を生み出す⇨③
③身体における均衡の崩れ(体液の不均衡)
三つの体液は、精神的局面においては、主体と客体との二元性(*2)を生じさせ、生命と宇宙とを表出するカルマの力を生む
⑴風素(ルン)=アーユルヴェーダのヴァータに相当
過剰により情緒不安定・落ち着きがない・緊張・集中力散漫
(全ての精神の乱れは風素の撹乱が絡む)
貪欲・愛欲・執着が毒となる
禁欲、精神的な負担、睡眠や食べ物の不足、自然な排泄作用の抑圧などによっても増加
病んだ時には暖かい環境、親しい友とくつろぐ、睡眠を十分にとる、適切な呼吸法
油っこく滋養のある食べ物がよい
甘・酸・鹹(しおからい)味、油性・重性・滑性の薬
⑵胆汁素(チーパ)=ピッタに相当
過剰により、攻撃的で激しい狂気
嫌悪や怒りが毒となる
過度の興奮・環境の変化・激務・照りつける太陽の下にいることによっても悪化
病んだときには、涼しく静かな環境、冷性の食べ物が良い
気分を楽にしゆっくりふるまうこと
甘・苦・(渋)味、希薄性・鈍性・穏和性・寒性の薬
⑶粘液素(ベーゲン)=カパに相当
過剰により、心を閉ざし、沈黙・不活発で憂鬱
精神的迷妄・無知・身体的怠惰が毒となる
重い食事、湿気の多い場所、惰眠・意気消沈などによっても悪化
病んだときには、運動が有効、暖かい環境・火の近くに座る、熱性の食べ物がよい
辛・酸・渋味、鋭性・粗性・軽性の薬
④毒
⑤悪魔的影響力
悪魔は、恒常的な「我」の存在という幻想に執着する根源的な無知から生ずる
悪魔は内部からわれわれに襲いかかる集合無意識の否定的元型(*3)としても説明できる
幽霊は自らの否定的な投影、あまりに恐ろしくて意識のなかへ入れるのを容認できず、外部へと投げ出した結果、われわれを襲って来る、内部にある暗い力のこと
自我から疎外された無意識的人格や衝動と解釈できる
悪霊は概念化作用から生じ、精神の二元性に由来する
霊もわれわれも空(くう)であり、何ものもわれわれに危害を加えることができない
空性を認識することによって、そうした区別は全くなくなり、あらゆる病や否定的なものは調伏され滅せられる
悪魔払いに必要とされるのは、空性への理解と霊に対する慈悲である
それがあれば手の込んだ儀式や悪魔払いは本当は必要ない
優れたチベット医は薬物をそれにふさわしい敬意をもって扱い、それを薬師如来への供物とみなす
医師が優れた医薬をつくり出せるかどうかは、医師の感受性や心の明晰さ、そして特に他者を救済しようとする意図の純粋さにかかっている
*1 脈管:霊的な風(気)と精滴(生命のエッセンス)の存在するところ。固定的なものではない。中央脈管にはチャクラが観想される
*2 二元性:自と他、主と客、善と悪、明と暗、陰と陽など、背反する二つの構成要素に分けられるという概念。
*3 元型:集合的無意識の中に共通する象徴的なイメージ像。ユング心理学の概念。
信仰
信じること、信仰は素敵なことだと思います
ただ、それが盲目的になっていないかどうか
不安や自分への否定の苦しみから
逃れ、目を背けるために
自分の感覚を塞ぎ、盲目的に仰いでいたら
その信仰の対象がなんであれ(イデオロギーでも学びでも)
自分から乖離してゆき、更に苦しみに悶えることでしょう
行き過ぎると
信じたことを肯定するため
信仰を否定するものへの排除に
突き進んでしまうこともあります
偉大な宗教というのはもともと
ピュアで根源的な本質から興ったものなのに
盲目的な信仰とそれを利用する構造とがマッチして
肥大化し、癒着、争い、搾取、不幸をもたらしたと
私は受け止めています
一方的に騙されたとか、陥れられたとか
そういうことじゃないんだと思います
みんなひとつなんだから
逆に宗教を一括りにして拒絶するのも
思考も感覚も停止していて
もったいないことです
※私は特定の宗教に所属してはおりません
まずは自分のハートで感じること
自分の映す世界に目を見開き
呼ぶ声に耳を澄まし
心地よさや痛みを感受し
それを信じ、想いを循環させること
世界とちゃんと向き合い対話し
ハートで感じ、愛を満たすこと
それが自分軸の祈り、信仰なんだと思います
古来よりアジア南部で信仰と関わりが深かった
ホーリーバジル
このハーブが寄り添ってきたのは
きっと盲目的な信仰ではなく
自分軸の信仰
その姿、香り、味の中に
鏡に映された神を見たのでしょう
自分でない軸ががんこに居座っていたら
ハートは閉ざされ
ホーリーバジルの声は届きません
心を開き
深い呼吸の中で
その美しい姿を愛で
香りを沁み込ませ
味わい尽くしたなら
胸から温かいものが溢れてくる
それは内なる神との再会
自分とひとつである世界との調和を思い出させてくれる
自分軸から世界との関わりを調え
クリアにしてゆくことは
呼吸器系、免疫系、神経系、ストレス耐性の向上、脳機能明晰化などという
ホーリーバジルの作用に反映されてきます
ホーリーバジルは確かに多くの人の神性に共鳴したわけですが
これを絶対視することもまた盲目となります
何であれ
同じように
愛を感じるものがあれば
それもまた内なる神との対話
日によって変わってもいいし
毎日同じでもいい
けれどいつでも新しく
神様と出会えること
内なる神は今ここにしかおらず
つかまえておくことなどできません
信仰は美しく繊細な日々の営みなのですね
なんと素敵なことでしょうか
今日も新しく愛を満たすことができますように